珪藻土などの自然素材の健康住宅は埼玉県の石山工業所にご相談下さい。

中学2年の夏、父が突然「家を建てるぞ!」といい出しました。
市役所勤めの父は、もともと心得があったようで、自分で図面を書き、何と3ヶ月後には、建築工事が始まったのです。
トントン拍子で始まった新築工事ですが、大工さんの持病の
腰痛悪化に伴い、工事が中断してしまいました。
12月までには外回りだけでも終わらないと青森は雪です。
父の命令で、私まで、大工仕事を手伝うことになって
しまいました。
部活も休み、土曜も日曜も、父と2人で、左官工事が出来るように、下地板張りをしました。
初めは、本当にイヤで、イヤで仕方がありませんでしたが、段々に出来上がっていくにつれ、
楽しくなってきました。汗をかいた分、仕上がっていく達成感にハマってしまったのです。
建築材料のヒバ材の香りが体に染み込むほど、父と私の二人で頑張った1ヶ月でした。

自宅建築を手伝ったことがキッカケで、大工仕事に興味を
持った私は、迷わず工業高校の建築科を志望しました。
しかし、高校卒業後の就職に有利だからという父に反対され、
止む無く父の勧める商業高校に進路変更しました。
そんなことが原因で、その後父とはあまり口を利かなく
なってしまいました。
そして、父と口を利きたくないので、土日は、高校で入った
山岳部の活動を理由に、ほとんど家には居ませんでした。
山岳部の仲間と登った「八甲田山」と、山小屋の窓から見る
夜景は格別でした。
山に登るたびに、自然界の中で「人間は生かされている」と、感じたものです。
そして、希望の建築に進めなかった自分の悩みなど、ちっぽけなものだと、いつも癒される思いでした。

父に従って入学した商業高校でしたが、東京の都市銀行に
職できたことは、ワクワク感もあり、正直嬉しかったと
いうのが本音です。
当時の第一勧業銀行(現在のみずほ銀行)青山支店です。
青森育ちの私にしてみれば、あこがれの大都会です。
楽しく、かっこいい銀行員生活を想像していたのです。
しかし、マニュアル通りの受け答え、上司には絶対服従。
「いらっしゃいませ」「ありがとうございました」の
連呼、連呼、連呼。
しかも頑張れば、頑張るほど、出る釘は叩かれ、組織の中の
歯車として廻っている自分が嫌になりました。
それでも、4年半、必死に頑張りました。
そんな時、父が転倒事故による脊髄損傷という大怪我を追ってしまいました。
左上半身が麻痺し、一生車椅子生活になるかも知れないという話でした。
私は、長男です。
確かに、進路を巡っての確執があったとは言え、こんな時こそ、自分がなんとかしなければならないと思ったのです。
私は、迷わず銀行に依願退職を願い出ました。
もったいないととか、他に方法はないのかといったことを言う人も沢山いましたが、私に迷いはありませんでした。
しかし、第一勧銀を辞めて帰った私ですが、当時の青森に、私が働ける職場はありませんでした。
しかたなく、自分のプライドは捨てて、複数のアルバイトを掛け持ちしながら、父の通院と介護の生活を、1年続けました。
その甲斐あってか…
父は奇跡的に歩けるようになり、なんと怪我から1年半後には、職場復帰できるまでになりました。
父が元気になると、定職のないて私は、まるで「厄介者」のような存在になってしまいました。
家族のことを思って、実家に戻ったという想いがあった私には、その視線が痛いほど辛いものでした。
そんな時、母から「おとうさんと話してみて」と言われ、久しぶりに、父と晩酌を酌み交わしました。
「健一、ありがとう。助かった。あとは、お前の人生だ。
時の流れや雰囲気での「時流」でなく、自分の器や正直な気持ちで動く「自流」で生きてみろ 」
この言葉、今でも忘れはしません。
父に反対されて、工業高校を諦めさせられたという想いが強かった私には、今更「自分流」で
生きろと言われても、直ぐに素直にはなれませんでした。
しかも、家族のために帰郷したという思いのある私にとっては、「自分が元気になったら、厄介払いか」と、妙にひねくれて、受け取ってしまったのです。
しかし、父は、本当は私が銀行生活に嫌気がさし、父の介護を理由に辞めてきたことを
見抜いていたのです。
不器用な父の、これが、最後の叱咤激励の言葉でした。
私は、中学のあの進路決定の時にもどろうと決意しました。

その年の12月末、読売新聞の奨学生試験に合格。
あこがれの東京理工専門学校建築科に入学が決定しました。
一級建築士を目指して、25才からの再スタートです。
世に生まれてきたからには、一つでも形の残るモノを
造ってみたい。
何もない白い紙に、一本の点と線で描くことによって、
2次元の世界から3次元の世界が生まれ、
それが、形になりモノとなる。
私は、建築のプロの一人になりたかったのです。
新聞奨学生は、新聞配達をすることで、奨学金の返済をします。
私は、朝は3時から420件のお宅に新聞を配達し、夜は集金もしました。
購読者の拡張もしなければなりませんでした。
しかし、
「お早う。御苦労さま。夜遅くまで大変だね。学校行ってるか!」
と、声をかけてくれるお客様に励まされて乗り切ることが出来ました。
ただ、新聞のチラシ折込作業が原因で、喘息の発作が出てしまいました。
専門学校卒業後は、足立区の工務店に住み込みで建築の実技を学び、その後、建築デザイン会社に
就職しました。
高島屋デパートに出向し、内装現場監督を2年経験しました。
その後、フリーの現場監督としてデザイン会社や大手内装会社と契約しました。

当時仕事が面白くて仕方ありませんでした。
寝る間を惜しんでディスコ、ショートパブ、中華飲食等の商業施設の
現場監督を掛け持ちしました。
一億円以上の内装現場を45日で仕上げるという醍醐味のある
仕事もやりました。
30歳で結婚、練馬での新婚生活も始まりましたが、徹夜での
現場監督の掛け持ち生活は変わりませんでした。
妻も店舗設計のデザイナーでした。妻の実家は工務店なので、
私の仕事を理解してくれましたが、現場と練馬のマンションで、
妻とは夜昼すれ違いの生活が続きました。
それでも楽しかったので、仕事が辛いと思ったことはありませんでした。
しかし、大きな転機がやってきました。
六本木でディスコの内装仕上げ工事の時です。突然、息が出来なくなり、動けなくなったのです。
病院での診断は、「アレルギー性喘息」でした。
新聞奨学生の時発症した喘息が再発したのです。
しかし、1億円の現場だったので、途中で人に任せる訳にもいかず、喘息の発作止めを携帯して、
なんとか現場は完成させました。
徹夜での現場監督の仕事で喘息がひどくなるばかりなので、現場引渡後1カ月の休暇をとって
静養しました。
そして、現場監督料を受け取りに行ったら、新橋にあった元請けの会社はもぬけの殻になっていました。
報酬200万は回収できないことになってしまいました。
多くの仲間の協力業者さんも、不渡り手形をつかまされ倒産しました。
私は、ハイリスク&ハイリターンの商業施設の内装工事業が信じられなくなりました。
現場監督料が回収できず、困った私は、住む場所にも困りました。
長男も1歳になっていました。迷ったあげく、私は、恥を忍んで妻の実家を頼ることにしました。
工務店作業場の2階で、親子三人の生活が始まりました。
しかし、頼った妻の実家で、本物の建築に目覚めました。
妻の実家は、地元岩槻で70年以上続く工務店でした。実直な人柄の二代目社長と、大工さん達。
100坪の作業場で、大工さんが毎日手作業で、墨付け・刻み・加工をしていました。
木の香り・木を刻む音・大工さんの熱気、それらが私の五感に響いてきました。
今まで私が造ってきたものは、テレビ・雑誌に載る有名デザイナーの作品や、
最先端のディスコ・飲食店ばかりでした。
しかし、現場に行けば手配した職人や資材が来るのか、図面では納まっても、
現場では納まらないものを何とか納める矛盾、工期は間に合うのか、チャント金は貰えるのか…、
そんなことに脅えるような日々でした。
しかし、工務店の仕事とは、私が知っていた建築の仕事とは、全く違っていたのです。
今までの私は、だれのために仕事をしていたのか、モノつくりの根底の違いを実感する毎日でした。
はっきり言える事は、デザイナーの絵を形にしていただけです。
私の前には、喜んでいただけるお客様はいなかったのです。
岩槻に来て2カ月が経ちました。二代目社長の義父から、公共工事を受注したので、
現場監督をしてほしいという依頼がありました。
公共工事の現場監督が出来る社員がいないので手伝ってほしいというのです。
私は、その時から、義父を手伝うことになったのです。
石山工業所では、住宅の新築、リフォームがメインでしたので、今までの商業施設と違って、
夜の時間が自由になりました。
そこで、妻と2人で、一級建築士と、二級建築士両方の資格を取得し、石山工業所内に
一級建築士事務所を立ち上げることが出来ました。

作業小屋の2階で生活した長男が3歳を過ぎた頃、
小児喘息の発作が出ました。
家内と夜中に緊急で小児医療センターに何回も駆け込みました。
アトピー型の喘息でした。
私は、自分の時以上に、熱心に喘息の勉強をしました。
発作の誘因から予防方法そして、生活している家の環境状態や
食べ物までです。
シックハウスが原因で、アレルギーが発症したり、
悪化したりすることも理解できました。
時を同じくするように、シックハウスを解消するリフォームの
相談が多くなってきました。
息子の小学校のPTAでも子供達の持病と住宅の環境改善は、教育委員会から学校環境・給食まで
巻き込んだ大きな話題でした。
埼玉女性建築士会・PTAの研修会・地元医師会等を通して、水・炭・コルクタイル・珪藻土・漆喰等と
多くの自然素材の実験・施工しながら住宅や環境の改善に参画し、研究を重ねました。
しかし、この素材なら大丈夫、こんな家なら安全と断定できるほどの確信は持てずにいました。
ある時突然、岩槻区宮町在住の関根様というお客様が会社にお見えになりました。
外壁のリフォームとサッシの入替工事のご依頼でした。
私が現場調査にお邪魔すると平屋ですが、築48年の優れモノで、瓦も手入れの跡がなく
建物も歪み・狂いもなくしっかりしていました。
「大工さん、いい仕事してますね」とお聞きすると、
「何言ってんだよ。お宅の先代にお世話になったんだよ!」と…
桧の床も、漆喰仕上げの壁も、ヒビ1つありませんでした。先代が棟梁として指導、
手掛けた家をこの時、はじめてみました。
一緒に現場を見た妻と私は、約束をしました。
「大工さん任せの家づくりではなく、お客様の想いを形にする家づくりをしよう」と…。
ビニールクロス、クッションフロアー、合板フロアー等、今の新建材は本物以上に良く出来ている。
施工が簡単・工期短縮・安価な価格・仕上げがきれいで魅力です。
「これが今の普通」の家です。
私は、木造住宅を造るようになっても、喘息の発作止めを手放せない状態が続きました。
そこで、気がついたことがあるのです。
石山工業所の創業者が造っていた、昔の木造住宅は、「夏向き」の家でした。
すき間風が家の中を通り抜け、家の中の空気が常に入れ替わり、湿気が外に出されていました。
だから、冬は寒かった。
柱や梁を壁の外に出す「真壁(土壁・珪藻土・漆喰壁)づくり」で、天井・床は無垢の杉や
桧の板張りでしたから、たとえ水滴がついても乾きやすく、結露はあまり問題になりませんでした。
しかも、本物の自然素材を使っていたので、シックハウスとは全くの無縁なのです。
先代の造った家を(自然素材仕様)今だから造ろう。
妻と私は、強く決意しました。
妻が思い出したように言い出しました。
「父もよく先代に言われたって。
家は造ったあとが大事だ。だから、見えないところに手間暇を惜しまない。
家は、お客様に引渡して家族の一人として向えられる」
「家族を守り、育て、育てられながら、家が一生涯を全うするまで、見届けるのが
工務店の生り合いであり仕事だって。
だから、お兄ちゃんが、18歳で病死した後を、自分が継ぐことになったって。」
この言葉を聞いて、私もついに石山の苗字を継いで、妻と共に、3代目として、
石山工業所の跡を継ぐ決意をしたのです。
迷いはありました。しかし、伝統と責任を引継ぐことにしたのです。

妻との二人三脚の仕事がはじまりました。
デザインセンスのいい妻は、設計室長という形で、
設計を担当することになりました。
私は、現場が得意なので、現場を見ることにしました。
40年~50年住み続ける家だからこそ、本物の素材に
こだわった家を造ろうと決めています。
人間は、自然の一部として「生かされている」のだから、
自然と接することで、気持ちよさ、
優しさ、美しさを感じる。そして癒されていることを
感じるはずです。
それを一番実感できるのが我が家の筈です。
私たちは、創業者が昔作っていたような本物の自然素材の家作りをしたいと思っています。
そして、自分の家を建てるつもりで知恵を出し合って創意・工夫の中から、お客様ご家族の想いを
家にしていきたいと思っています。
3代目を引き継ぎ、7年の歳月が流れました。
私たち夫婦の家づくりを信頼して下さるお客様、本当にありがとうございます。
私たち夫婦は、地元岩槻で、創業者の想いを守った家づくりを生涯全うしていくつもりです。
今まで、何故か「しっくりこなかった」自然素材の選定に関しても、今は、絶対の自信があります。
私は、お客様は「自然の香りがする・きれいな空気の家」に住みたい筈だと思っています。
それは、私自身がシックハウスに敏感で、本物の自然素材の家だと症状が出ないことを
実感しているせいでもあります。

昔の家づくりは、「手刻み」が基本でした。
石山工業所は、木材の加工もしていたので、「石山工業所」という
工務店らしくない社名ですが、創業者が名付けた名前を
変えたくないと思っています。
名前は、石山工業所ですが、創業時の80年前から
本物の家を建てている工務店なのです。
3代目の私になって「アイエスホーム」という“屋号”を付けました。
「アイ(I)エス(S)」とは、“石山”のことなのです。
私は、石山の名を継いだ以上、生涯、岩槻で、本物の家を作り、家守りをしていくことを
お約束いたします。
地元密着が基本なので、あまり遠くには行けませんが、必ず、自分の健康が悪化しない家、
自分の家族に住ませたい家をお作りしますので、ご興味のある方はお問合せください。